『出会い編』棗サイド
『本当に、ココには何も無くて、ただ、違う誰かに縛ってくれるものがなきゃ、耐えられなかったんだ。』
随分と時間が経ってから、彼は少年に笑って言った。
ガサッ
棗は枝に手を伸ばし、今まで寝ていた太い桜木の枝から猫のように軽い身のこなしで少し動いた。
それというのも、自分の顔に一枚の紙切れが舞い上げられてきたからだ。
安眠を邪魔され、忌々しげに舌打ちすると、棗は紙切れを握るつぶそうとして、ふと紙切れの一点に目が行った。
その紙には、日本に珍しいサイズの用紙で、英文が細かい文字でびっしりと書き込んであった。
その奇特さはあえて、無視するかのように、棗は英文の最後の一文字のみをじっと見つめた。
Written by Soseki Natsume
夏目漱石著
彼は片手でぐしゃりと紙を握りつぶした。
動いたひょうしに、枝が揺れ、桜並木により一層の桜を散らすことになった。
下に歩いている人間がいれば、さぞ驚いて上を見上げてたことだろう。
だか、今頃全校生徒は授業中のはずだ。
あるいは、棗のように授業をさぼっている生徒もいるかもしれない。
だが結局、今の時間、堂々とこの桜並木を通るものはいない。
ザワザワザワ------------
棗は、ふと顔を歪めて校舎を見上げた。
久しぶりに、静寂が破られたのだ。
ここは私立クレアール学園。
選ばれし者達が通うカトリック男子校である。
生徒達が、校舎から吐き出される。
一気に桜並木は、生徒達の彩りで包まれる。
それを煩そうに見下ろしながら棗は、今日で何度目かの欠伸をかみ殺した。
生理的に出てくる涙を拭こうともせず、棗は胸ポケットに手を這わせた。
手にはするりと、入学式の時に渡されていた名札が入る。
『山田 棗』
それが彼の名前である。
彼は一層冷たい目を名札に対して向けた。
彼の、小さい頃から美しいと評判の白く長い指は、忌々しげに彼の名前に爪をたてる。
長めの美しい爪をもつ指が、血に滲むのも顧ず彼はひたすら気が済むまで爪をたてた。
彼は自分の名前が嫌いだった。
むしろ、名前をつけた親達が嫌いだった。
彼の両親は、『夏目 漱石』という人物を初めとする夏目家を途方もなく嫌っていた。
何でも、旧家の弓道師範代家である彼の両親は、先祖代々、夏目家の家系に様々な方面で裏切られてきたという。
それは憎しみと言うより、もはや災いに近く、山田家の人間は何よりも恐れていた。
そんな折、その家には双子のあかんぼうが生まれた。
弟の方は何不自由なく育ち『ジロ』という名前を与えられた。
一方、兄の方は生まれつき体が弱く、弓道界での発展は無いだろうと医者に言われた。
山田家では昔からの慣わしで、そういう子には目印になるため、漢字のみを変えていき『ナツメ』という名前を与えた。
『ナツメ』−−−−−−−−−−−−−−裏切り者・・・と。
グシャッ
物思いから離れると、すぐに棗は名札を握りつぶし、ポケットに入れた。
こんな目覚めの悪い物思いをしてしまったのも、あのどこからか飛んできた紙切れのせいだと、内心毒ついて、もう一度手で握りつぶした紙切れをみつめる。
内容は分からない。英語はひどく嫌いである。
なにしろ、この学校に入学するのは今年が始めてでも、高校の入学式は今年で3回目である。
全て学校を変わってるにしろ、同じような高校1年の春を3度も迎えている。
留年理由は、出席日数3割、成績7割といったところである。
特に、英語はさっぱり分からない。何しろ中学の2年あたりで、早くも理解しがたい内容になっていた。
けれど、不思議と『Written by Soseki Natsume』という一文だけは分かった。
夏目漱石著。
夏目漱石という人物が嫌いではない。むしろ、少しの共感さえ覚える。
裏切り者・・・・・・・・・。
チリッと、奥歯で血の味がする。
山田家にとって、『ナツメ』の全ての存在は否定されてしまう。
彼等にとっては、かの文豪夏目漱石でさえ、嘲笑の対象となりえる。
ひらりひらりひらり
桜の花が舞い落ちていくのを、ぼんやり眺める。
棗は一旦頭を振ると、猫のように大きく伸びをした。
すると、目の端に遠く、きらりと金色のものが光った。
(・・・・・・・・何? あれ・・・)
数度目を瞬くと、光るものが自分の近くに移動してくるので、なんであるか分かった。
一人の生徒の頭である。
棗は今、桜並木の一番奥、サボリにはもってこいの大きな桜の木の高い枝に寝転がっている。
なので、桜並木の中央に歩いてくる人影を、たやすく見つけることができた。
金色に近い茶色の髪が、太陽に照らされ、まるで宝石のようにキラキラと光っている。
(綺麗・・・・・・・・・・)
単純に、棗はそう思って、夢中でその少年を目線で追う。
段々とこちら側に近付いて来るのが嬉しくて、棗は嬉々として少年に手を伸ばしかけた。
「・・・・・・ぁ・・・。」
思わず伸ばしかけた手を睨みつけ、再び少年に視線を戻す。
少年は桜の舞い散る花びらを優しい瞳で見やると、ふと手をさしのべてきゅっと花びらを掴んだ。
その動作一つ一つを見るたび、棗はこれまで感じたことの無いような、むずむずとした衝動に突き上げた。
まるで猫が新しい玩具を与えられたような・・・・否、そうではなく、猫が、直感で美しいと感じる未知の生物と遭遇したような・・・・。
「ソウセキにもこの花を見せてあげたいですね」
瞬間、鈴の音を振るようなリンとした声が聞こえた。少年の声だ。
同時に、棗は自分が、これまで経験したことの無い高揚を自覚した。
全身に鳥肌が立ち、寒気すらした。
そして遂に、少年は棗の休む桜の木の下に来て、本を広げて座ってしまった。
少年は、まるきり棗の存在に気付いていないようだ。
「・・・・・ッ!・・・・」
心拍数が2倍に跳ね上がったのを、棗は自覚した。
無意識に声を潜めて、少年をみつめる。
少年は黙々と、持ってきていた本を読み始めた。
真上から見下ろしていたため、何となくの内容は見えた。すべて英文である。
ふと、棗は手にしていた紙切れと、少年の本とを見比べた。
・・・・・・・・・・・・・さすがの棗でも高確率で一致だと判明される。
何しろ、なかなか無いサイズの本であるし、紙質もなかなかの上等品であったため、書店では見かけないタイプだ。
学園でそう何人ももっている本でないだろう・・・・。
(・・・・・・・・・・・・・。・・ぁ)
何となくぼやっと、どうしようか考えると、棗の思考回路は単純に、怒られると言う結論に達した。
スグに棗は自分が座っている枝より上の木陰の部分に、動物がそうするように紙切れを隠した。
また一拍、心臓が早くなった。
それはともかく、棗はさっきの一言に疑問をもった。
(・・・・・・・ソウスケって・・・・誰・・?)
(・・・・・恋人かな・・・・・・・・・・・・)
(いや、それより・・・・・・・ソウセキ・・・・・漱石って・・・・)
確信にせまる答えが、出そうになった時、棗は顔を再び上げて少年を見た。
「・・・・・・・・・・あんたは、俺の事・・・・・・・・」
嫌わない?
怒らないかな・・・・・?
その時、ちょうど少年が立ち上がったのを、反射的に捕らえようとして、
棗は一度はひっこめた手を、めいいっぱい伸ばした。
【縛ってくれるものがなきゃ、耐えられなかったんだ。】
ズルッ
「は・・・?」
当然と言えば当然で、棗はそのまま一直線に落ちていった。
ドサッ
ひらりひらりひらり
桜が、また大量に散る。
背中に何枚も降りかかっている。
感じてる。
少年の胸に、しがみつきながら。
苦しげに起き上がろうとする少年に覆いかぶさりながら、彼は少年の瞳を捕らえた。
想像通り、欲しかった綺麗な色だった。
少年の同じ赤のラインの入った制服をつかみあげ、近くに引き上げると、彼は、今日始めて、笑って言った。
「俺のご主人になってください」
それから、奇妙な2人の関係が始まっていった。
後日、彼は、あれが俺の告白の仕方だと胸を張って言い、上の一部始終を楽しそうに英知に話した。
それが、嘘か本当かは、別としても。
【終】 ・・・・え、終わるの!?